現在位置 : ホーム > Novels > 『生命の道』

『生命の道』

 蝉は泣き、陽炎はゆらゆらと立ち上る。
 世界はまるで燃えているかのようだ。

 大学二年目の兄は、歳の離れた妹とドライブに出かけることにした。国道に沿って走り、高速に上がって、海浜公園まで出かけるルートだ。

 助手席に座るのは年の離れた妹で、名前を一埜、かずのという。

 「豊かな湿地帯、一つの野原が広がるように、幸せがどこまでも広がっていくように」

 と名付けた名前だったらしい。兄は、そこに一、という名前が入っているのが昔から気になっていた。兄を入れれば妹は二人目の子供だから、もしかすると両親には、女の子をもう一人作る予定があったのかもしれない。

 あったのかなかったのかも不明な予定の片棒を担いでいたかもしれない父も最近は病を得て、母がより長い時間働くようになり、妹の世話と言えば兄の役目となっている。今回のドライブも、両親の了承済である。

 一埜ははしゃいでいた。まだ小学4年生で、あどけなさが残る。半袖のTシャツ、フリルのついたスカート、長いこめかみの毛も後ろ髪も、それぞれヘアリボンでまとめている。赤いフレームの眼鏡の鼻あての脇には、小さく汗の粒が浮いている。一埜は、いつもより少しめかし込んできた。兄と思い出を作るつもりだったのだ。兄も用意をしっかりしてある。泳ぐための水着は二人ぶん買ってあって、着替えは車の中でするつもりだ。かわいい妹に付きっ切りで海を楽しむつもりだった。

 「お兄ちゃん。海なんて久しぶりだね」

 妹は足をぱたぱたさせながら、鼻歌なんか歌っている。

 「静かに座ってろよ。窓から顔は出しちゃだめだぞ。それに、寒かったり暑かったり、トイレとかに行きたくなったら、早く言うこと」

 「はーい」

 聞いているのか聞いていないのか……と苦笑しつつ、兄は車中の暑い暖気を追い出そうと、エアコンをガンガンに効かせて、前後左右を確認してから、車を出した。

 下道を走っている内に、ファミレスに寄って、ご飯を食べた。

 「ファミレスなんて久しぶりだね」

 一埜は嬉しくて、そう弾んだ声を上げた。

 「ぼくは大学の友人とたまに来ていたな」
 「えーそうなの?」

 と一埜は驚く。

 (妹のことをしばらく放っておいてしまっていたのかもしれない)

 兄はそう気付いて、少し胸が痛んだ。

 「来たかったら、いつでも言ってよ。一緒に来よう」
 「ほんと?」

 一埜はハンバーグを頬張りながら喜んでいた。

 会計を済ませて、また車に乗り込んだ。海までは2時間ちょっとである。途中、コンビニで買い物とトイレを済ませて、高速道路に乗り込んだ。一埜はわいわいと騒いでいたが、やがて言葉少なになってきた。

 「大丈夫、眠いの?」

 兄は気づかわし気に声を掛けた。

 「ううん、大丈夫……」

 そういうわけではないようだ。兄が横をちらりと見ると、一埜は、肩を上下させたり、胸元に手を当てて深呼吸したりしているみたいだ。車に酔ってしまったのだろう。

 「一埜、大丈夫か……?」

 一埜は「大丈夫、お兄ちゃん」と答える。

 特段、運転が荒いわけではない、と一埜は感じていた。しっかり酔い止めも飲んできた。単に自分の調子が悪いのだろうと思う。芳香剤のにおいが鼻について、目頭がじんじんと不快になって、生唾が出て来て、それを繰り返し飲み込む。

 「一埜、大丈夫か? ごめんな、そろそろ高速終わりなんだけど……終わったらいったん車止めるから、ちょっと休もう」

 兄は一埜の様子を窺いながら、また声をかける。

 「一埜、もうちょっとだけ頑張ってくれよ」と兄が言うが、車がガクンと揺れたその不意に、

 一埜は、ぱっと口を押さえた。

 「お兄ちゃん……ごめんね、吐いちゃいそう……ふくろ……」

 兄はビニール袋を差し出し、一埜はそれを受け取る。
 辛そうに目を閉じているが、やがてビニール袋を口元へと運んで、兄を見て言う。

 「ごめんね……」

 兄は「気にするな、それくらいで」と笑う。声の調子とは反面、彼の胸の中は、張り裂けそうな気持ちでいっぱいだった。

 一埜は、目の前がぐるぐると回って、袋の中に自分そのものがまるごと吸い込まれそうな感覚を覚え、とうとう嘔吐してしまう。

 兄はハンドルから手を離さないように気を付けつつ、一埜の背中をさすった。何度か妹の方に目を向けたが、袋の中に綺麗に吐くことが出来たようだった。袋の中で、ゆらゆらと吐いたものが揺れているようだった。

 旅路は、高速道路が終わり、下道へと入り込む。

 兄は、妹のために、一度車を路肩に止めてやることにした。

 「ちょっと休憩しよう」
 「うん」

 妹はほっとした顔をしたが、手に握りしめていたビニール袋を小さく持ち上げて、

 「お兄ちゃん、これ……」

 と兄に見せた。一埜の心には恥が波の様に襲ってきたが、その袋をどう片付けていいのか、一埜にはわからなかったのだ。

 「ああ、大丈夫。縛って、その上からもう一回袋に入れておこう。後で片付けておくから」

 兄は笑いながらビニール袋を受け取って、それを言った通り、別の袋で上から包んだ。一埜は、ほっとした。お兄ちゃんなら、きっとなんとかしてくれる……。一埜は頷いたが、ふと兄に尋ねた。

 「ねえ、お兄ちゃん。私のこと、汚いって思った……?」
 「仕方ないよ。一埜は悪くないし、それに、一埜のだったら、汚くないよ」

 兄はにこっと笑った。一埜はそれを聞いて、少し嬉しく思った。

 車も疎らな、畑の真ん中の道である。少し先に、防風林が見える。作業車などは見えない。

 (あそこに捨てに行くのがいいかもしれない)と兄は感じた。

 防風林の路肩に車を止めて、疲れた一埜を残して兄は防風林に嘔吐物を捨てに行った。

 「ちょっとここで待っててね」
 「わかったよ」

 一埜は頷いた。兄は一埜に優しい声を掛けてから、二重にしたビニール袋を握って、車を後にした。

 音楽好きの一埜は、兄から受け取った麦茶を飲みながら、ポリリズムを使った音楽のことをぼんやり考えていたが、やがて、

 (おしっこ……)

 尿意を催して、雑木林の中の、兄のところへと向かう。

 一埜を後にした兄は、ビニール袋を開いた。人には見せたくない、妹の秘密だ。こんなところに捨ててよいものかも迷うが、妹がほっとするなら、仕方がないと思った。彼は、砂遊びのためにと持ってきていたスチールの小さなスコップで、袋が入り切るくらいの穴を掘った。

 そして、いよいよそこに捨てることにしようと思って、
 袋を開けた時、
 妹の胃酸のにおいに、兄はくらりと眩暈を覚えた。

 彼は自分でも気づかないうちに、袋の中を覗き込んでいた。不快なはずのそれは、何故か今は、卑猥なものに見えていた。泡立って粘る、鮮やかな胃液と食べ物の残滓、妹を喜ばせた甘いメロンソーダと、ハンバーグの脂の匂い……。彼は好奇心から、その匂いを、胸いっぱいに吸い込んでみたくなった……決して喜ばしい香りではないのに……。

 ばきり、と不意に防風林の中で立った音に、兄は飛び上がりそうな気持ちになった。振り返るとそこには一埜がいて、目が合った。一埜の足元で小枝が音を立てていたらしい。兄は慌ててビニール袋を閉じた。一埜に「ごめんな。片付けてたんだよ」と言った。
 一埜は頷いた。そして、

 「お兄ちゃん、おしっこ……」

 兄は、

 「あ、ああ。見ないから、そこにしなさい」

 早口で言った。妹は頷いて、そばの樹の根元へと向かった。
 兄の心は激しく乱れていたが、とにかく袋の中身を、掘った穴の中に流し込んで、そして念入りに上から土を掛けた。その作業は上手くやることが出来たようだった。何もなかったかのように見える。

 「すっきりしたか?」

 こくり、と妹が頷いた。ほっとした顔をしていたので、兄も安心した。

 二人は車へと戻る。

 「車、出してもいい?」
 「うん、だいぶ落ち着いたよ。早く海行こ」
 「良かった。じゃあ出発」

 やがてしばらく走ると、窓から海が見えた。正午だ。太陽は高くて、水面がキラキラと輝いている。
 「綺麗だね」と兄が言い、妹は「うん、楽しみだなあ」と嬉しそうに言った。
 兄は窓を開けた。潮風の匂いがする。海はもうすぐだ。車が勢いよく動き出した。

   ■

 その日の夜。

 (なぜこのようなことを考えるのだろう、ぼくは?)

 一埜の兄は自分でもわからない感情に囚われていた。

 海は楽しかった。妹も無邪気にはしゃいでいて、彼は嬉しかった。遊び疲れたのか、帰りの車では眠ってしまっていた。家に着くと、両親から感謝までされた。だが、途中の出来事……。彼は夜の何割かをその空想に費やすことにした。

 心の中では、妹が嘔吐している。ここは防風林の中だ。彼は(あの時の続きだ)と思う。彼は彼女を気遣い、背中を摩る。吐いたものはよく見えない。ただ、気が付くと、吐いたものの端から花が咲いていることに気付く。その花がどんどんと広がっていって、防風林の立ち木を、広がる作物を、山を押しのけて、一面の花畑になる。

 (見たことのない花だ)

 彼はそう感じる。白くて美しい、七つの花びらを持った花だった。
 にも関わらず、一埜の兄はこの花畑に懐かしさを感じる……。

 夏の陽光が、二人に向かって照り付ける。妹は何度かに分けて、まとまった量を吐き終わると、涙声で兄に抱きつく。泣きたくなるような感慨と、罪悪感が、彼を襲う。彼には、妹の口から、彼女が苦しみながら吐き出したものの匂いが感じられる。なんと弱弱しく、愛おしいのだろう。辺りを蜂と蝶が飛んでいる。土の上に広がった嘔吐物が、陽光の中で、今度は、残酷なくらいによく見える。一埜が吐いたのは、海から帰ってきて、家族で食べた夕食のようだった。

 彼はそれを指ですくって確かめてみたいという強い衝動に駆られる。彼自身でも信じられないような、到底認めがたく、不快な衝動だった。

 (触れてはならない)

 必死で抑えながら、彼は一埜を強く抱きしめる。このまま永遠に離したくないと願う心と、このままではいけないと思う心に、引き裂かれそうになる。

 兄は妹の手を取って、花畑の外へと歩いていこうとするが、花畑は広く、そして周囲を深い森に囲まれていて、帰り道も分からない。諦めて、花畑の終わりの川縁で一息つく。妹は少し顔色が良くなっているが、兄はその顔を正面から見ることが出来ない。

 川の上から、折り紙で折ったヨットが流れてくる。二人は川の水に足を付けて、ただぼんやりと、森の木々が、空との境界の間に作り出す輪郭を、まるで理解できない文字のように眺める。そうしているうちに、現実の彼も眠たくなってきて、花畑も森もバラバラになっていき、彼は眠りについた……。

 それ以来、夜ごと、彼はこのような妄想をするようになった。一埜が妄想の中で吐き出すのは、決まって、その日一緒に食べたものだ。一緒に食べたものが、妹のお腹の中でどんな風に溶けていって、妹の肉体になるのか……彼はその興味から逃れることが出来ずにいた。

 (こんなことを考えていたくはない)

 願っても、彼はこの白く美しい花畑から出ることが出来なかった。花畑は成長していく妹自身なのかもしれない。彼はそう思った。夜ごと彼はこの花畑に辿りつく。出ていこうとするものの、どんな道を辿っても、決まって川で行き止まり、ただぼんやりと、空想の妹と共に川べりに座る。川は円環を描いているのかもしれなかった。ここは空間としても時間としても閉じた場所で、もしかすると森の外もまた花畑なのかもしれなかった……。そんな想像の繰り返しを、一埜の兄は、毎日しては眠るようになった。

 (あの時、埋めたあれは……命の循環に還っていっただろうか? きっとそうだろう)
 (じゃあ、この、どこにも辿りつくことのない妄想の循環は、一体なんなのだろうか……)

 あの時、土をかぶせたもの。無意識の中へと放り込んだもの。それが彼の心の中で育っている。

 彼は未だ、妹とのドライブの酩酊感の中にいる。海に辿りつくこともない、終わらないドライブだ。

 暑い夜だ。世界が燃えているかのようだった。   ■