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樹氷に、追憶を重ねて。
以来、わたしの部屋は冷え切って霜と雪に埋め尽くされた。
そしてその真ん中には樹が立っている。
幹へと寄りかかるあなたをその根元に眠らせたまま。樹氷に凍てついたまま。
あなたへと向けて、わたしは呼びかけた。
目覚めることなどないと、分かったまま。
「祐樹」
わたしは、決して目覚めることのないあなたにキスをする。
その感触は固い。
少なくとも、何もない中空とは同じくらいに。
ありもしない追憶から引き出された虚無と同じくらいに。
■
祐樹は小さな頃から奔放で不思議な女の子で、小学生のとき、わたしはとにかくそれがあまり気に喰わなかった。何を考えてるのか分からない子供だったし、あまりにわたしとは違いすぎたのだと思う。その頃のわたしといったら今と同じで只の馬鹿な子供で、しかも今よりもほんのちょっとだけ芸がなくて、親に授かったものを自慢することと、生きることと死ぬことばかりにしか興味がなかった。
祐樹はまあとにかく奔放だったので、隣のクラスだったわたしにも彼女の名は轟いていた。楽しいやつだ。うるさいやつだ。そんなところの評判だった。
祐樹はテレビゲームが好きな少女で、わたしもそうだった。今の子供にとってテレビゲームを切欠に絆を繋ぐのはあまりに当たり前のことだ。
わたしはその時から気の荒い人間なので、とにかく色々なものを傷つけてきた。ここには書けないようなこともいっぱいしてきたし、覚えていない分まで含めれば、屹度もっとひどい。
祐樹にペンを突き立てたのも、消し去りたい出来事の一つだ。
彼女がつい廊下ではしゃぎ過ぎたから。わたしのことをからかい過ぎたから、つい許せなくなって。ポケットに忍ばせていたペンを彼女の手の甲に突き立てた。
「どうして」
祐樹はそうやって泣いていたのを覚えている。
今でも彼女の手の甲は、どこか一点、黒いのではないだろうか。
樹氷に眠る彼女の手を取る。わたしにはわからない。少なくともここに眠る彼女の手は真っ白だった。空白と同じ程度には。
■
不思議なことだが、中学校に入ってからは祐樹が一番の友達だった。付き合ってみると、彼女は物凄く多才で楽しい女の子だった。気の抜けた浮き輪のような私にとって、祐樹の活力はとても眩しかった。絵を一緒に書いた。小説を一緒に書いた。寡作とは言っても、今の私が様々なものを産み落とすのは、全て彼女のおかげを被っている。彼女を認め、彼女に認められる。二人で宇宙を作れるんじゃないかなと思った。あの頃のわたしたちにとって、宇宙はあまりに狭すぎた。
「リンゴの赤」
とわたしは祐樹に言った。
リンゴの赤は誰にとっても赤なのか。わたしの赤はあなたの赤なのか。他人の宇宙が気になってしかたなかった。わたしにとって、わたしの宇宙はあまりに狭すぎた。
「宇宙の外の色」
と祐樹はわたしに言った。宇宙の外には何があるのだろう。本当の透明はどんな色なのだろう。わたしたちは、網膜が電磁波を受け取ってはじめて色が見えるのだということを知らなかった。わたしたちの宇宙はあまりに狭すぎた。
宇宙の話。
そんなものを通してだろうか。わからないけれど、わたしは彼女に恋をした。
女同士で気持ち悪い。そうなのかも、としか言えない。少なくともわたしの気持ちは終ぞ彼女に受け入れられることはなかったから。
あれだけのことをしてきて彼女に恋だなんて自分が嫌にならないのか。少しは、と答える。
お前は頭がおかしくなったのか。そうだ、としか言えない。恋をするということは、頭がおかしくなるということに等しいからだ。
中学を卒業し、祐樹は勉強のために遠くの街へと行った。わたしはこの街に残った。高校では演劇部に入った。
一つ上の、眼鏡を掛けた男性の先輩がいて、その先輩が好きになった。鋭く知的な感じが好きだった。夏休みに帰ってくる祐樹に相談に乗ってもらうことになった。事が起こったのはその日のことだった。不思議な日だった。学校が終わって。帰る時、なんだか幸せで仕方がなくて。彼女は、頭上いっぱいに星屑を纏ってやってきて。私はそれを見て、なんだかぼうっとしてしまったんだっけ。彼女とは、とりとめのない話をいっぱいして。一緒にごはんを食べて。徹夜で宇宙の話をして。その間、あの部屋にはずっと、祐樹の纏ってきた星屑がきらきらと飛んでいて。
徹夜明けの早朝に、祐樹に突然体を触られて、びっくりするくらいに体が熱くなったのは、どうしてだったんだろう。あの時、彼女の体も燃えていたんだろうか。馬鹿な私には分からなかった。馬鹿な私は、ただ震えていた。莞爾と微笑みかける祐樹の手が、不思議なくらいにあたたかかったから。彼女と体を触れ合うという行為はわたしにとって、信じがたいほどおそろしく、そしてこの上ないほどに、幸福なものだったから。
■
想いを告げた先輩には一日で距離を置かれ、一週間で振られた。煎餅蒲団のようなわたしは高校に入った時にはコミュニケーション能力がすっかり馬鹿になってしまっていて、近付けば近付くほど他者を厭わせたものだった。
ひょっとすると、お前はその先輩に振られたときにおかしくなったのではないのか。祐樹はただの先輩の代わりだったんじゃないのか。わからない、と答える他ない。だけど少しだけ異なる。いつということはないのだ。きっかけなんてよくわからない。本当の恋の始まりというのは、屹度そういうものだから。
私は音楽を作るようになった。だけれど口をついて出てくる詩はぐちゃぐちゃで韻を為さず、旋律は鋸みたいに切れ切れに上下して、歌というものを為さなかった。何かを整理してきちんと歌えるほどには、わたしは賢くないのだろうと思う。
だから、代わりに彼女の名前を、紙片にいくつも書いた。
祐樹。祐樹。
あなたに恋愛は向かないよ。
わたしの書いた恋愛小説を見た祐樹に、そんなことを言われたことが、あった気がする。
正直なことを言ってしまうと、わたしは生まれた時からもうすっかり馬鹿なので、わたしの気持ちはどうやら彼女に筒抜けだったらしい。当たり前だ。女同士ならこういうことも許されるかなと思って。会うたびに彼女のあちこちにいっぱい触れたから。二の腕。足。肩。それが心地よくて仕方がなかったから。
くちづけよりも一つだけ先のこと。結果として、そういうのは何回もした。ただキスだけは終ぞ、することはなかった。当たり前だと思う。キスはきっと、何かの始まりになってしまうからだ。
だけど、と今は思う。始まりがなければ、そこには何もないのだろうか。
そんなことはないのだろう。
始まりになれなかった空白からどこかへと向かって、そこにはきっと何かが満たされていたから。少なくともわたしにとっては。願わくば、彼女にとっても。
半年ぶりに、祐樹と会った。その日も不思議な一日で、わたしの部屋には朝からずっと、星屑がきらきらと漂っていた。彼女の纏ってきた星屑が、月の光をじゅうぶんに浴びて、光を取り戻したのかなと思った。あるいはここに近付いてくる彼女の力のおかげかな、とか。半年ぶりに彼女がやってきて、その日、わたしはなんだか彼女に触れられなくて、音楽の話なんかをしたりしていた。星屑が漂う部屋の夜、しびれを切らした彼女に、わたしの思いの丈を告げた。
自然と涙が溢れて出てくるような、そんな告白だった。あれほど心を燃やすことは、きっとこれから先もないだろうと思った。他の何かに身を燃やすくらいならここで燃え尽きてしまいたいほどに、あまくてつらい高温だった。
自然界を見るに、同じもの同士というのは、だいたい結びつかないものなのだろう。だから、男と女は繋がり合う。人ならぬものを介し、燃える炎を動力として。男同士とか女同士というのは、そうはいかないものらしい。
勝手にあなたのことを愛すよ。あなたがそうじゃなくても。
そのようにして、わたしの部屋の真ん中には樹が立って、わたしはその半径から出られなくなった。そしてその中心にあなたが永遠と眠った。以来わたしの部屋は冷え切って、霜と雪に埋め尽くされた。樹へと寄りかかるあなたはその根元に眠ったまま。その根に凍てついたまま。
あなたへと向けて、わたしは呼びかけた。目覚めることがないと、分かったまま。
「祐樹」
わたしは、決して目覚めることのないあなたにキスをした。
その感触は固かった。少なくとも、何もない中空とは同じくらいに。ありもしない追憶から引き出された虚無と同じくらいに。
「ねえ、わたしのこと、どう思う。祐樹」
声なき声が歌う。空白の歌を。
空っぽの音色で歌う。全ての言葉を、同時に歌う。
だから、わたしはそこから望む言葉を聞き取る。
「大好きだよ。あなたと、冬の街を歩きたいよ。一緒に手を繋いで」
「本当。うれしいよ、祐樹。大好き。愛してる」
祐樹。祐樹。
祐樹。
■
5年。それだけが経った。
暗い、暗い5年間だった。それだけの期間がわたしにとっては必要だったということ、ただそれだけのことだったのだろうか。違う。そのあいだ、わたしは彼女を本当に愛していた。叶うはずのない永遠の愛を、月への祈りに替えて歌っていた。樹氷にあなたを眠らせたまま、キスのまねごとなんかをしたりして過ごしていた。もしそれが出来るならば、わたしはきっとそのまま燃え尽きてしまいたかったのだけれど、そうならなかったのは、わたしには家族がいてくれたからだと思う。
今、わたしはパソコンを開いて、本物のあなたともう一度話したところだった。あなたを樹氷から起こすために。あるいは、わたしという追憶さえも、樹氷に眠らせるために。あなたへの想いに別れを告げるために。
あなたにはもう、5年間思い続けたその全てを伝えた。たとえば、思い悩んで辿りついた、ちょっとした真理なんかもそこに込めたりして。あるいは、自分をごまかしたりなんかして。だって、それすらもわたしの気持だったから。正直でいすぎるのは、恐ろしかったから。そんな卑怯なわたしを祐樹は怒って叱ったけれど。でも許してくれた。
あなたのような人間になれればいいなと、そう思う。
全てが終わって、あとには樹氷とあなたの肖像だけが残った。
わたしは長い息を吐いた。今日から彼女とはただの友達なんだなと思うと、なんだかこれから何もかもが変わってしまうかのような、そんなとても不思議な気持ちだった。だけれど、どこか晴れやかでもあった。それはきっと、彼女がわたしの心に、種を蒔いておいてくれたから。身勝手な病気を身勝手にこじらせた私がこれ以上苦しまないようにと。だから屹度、これよりも素敵な失恋の仕方を、わたしはこれから先も知ることはないだろう。
冷たく凍りついた、あなたの肖像。
最後のキス。
そんな言葉が頭をよぎったけれど、そんなものはもう、わたしには必要なかった。
最後がなければ終わりがないかというと、そんなことはない。最後になれなかった空白が間違いなくあって、そこからはただ完全な真空がどこまでも続いていくだけだ。何もなかったわたしたちにとっては、きっとそんな終わり方こそが相応しいのだと思った。
だから、あとに残るのは、完全な真空。新しい何かは屹度、ここからしかはじめられないから。
全てはこの部屋で行われ、かつ行われなかった。たとえ起こらなかったことを含まなかったとしても、やはりあまりにも多くが行われてしまい、そしてその全てはもう終わってしまっていた。
それら全ては、樹氷に埋葬されなければならない。
「祐樹」
私は呼びかける。
そこに眠る、私がこれまでもっとも愛した、あなたに向かって。
もしかすると本当のあなたよりも愛したかもしれない、星屑の部屋の、あなたに向かって。
「ありがとう」
最後に彼女が少し笑ったように見えたのは、きっと、気のせいだ。
だから、これは、全てなかったこと。全て、追憶。
樹氷に、追憶をうずめて。