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ぼくらの天体望遠鏡
~ 生きながらにして、月に心を置き忘れた君へ贈る Y.Naoko ~
■1
マコトという男の子は、生まれた時から月が好きでした。
なぜ好きかと聞かれても彼には答えられません。
マコトにとって、それは全く当たり前の事だったからです。
■2
月を見上げていると、彼は、いつも清らかな気持ちになりました。
大好きなお父さんとお母さんとのお出かけの日など、
いつも月に目を引かれては転んでばかりいたのです。
『あの月の上にはきっと、ぼくの忘れてきた、何かがあると思うんだ』
マコトにとってこれは大きな秘密でしたが、
マコトは、そんな想像をいつもしていたのです。
■3
アポロ11号という宇宙船があります。
アポロ11号は、マコトが生まれるよりずっと前に、月の上に降り立っていました。
しかし、それは、マコトにとって関心を引かないものだったのです。
ですから、星条旗がゆるやかに月面に立てられる様子を何度眺めても、
それは自分とは全く関係ないように思えました。
確かに、彼らのした事は、口では言えないほどにとても偉大なことでしたが、
マコトにとっての月とはそういうものではなく。
……もっと特別な、意味もなく懐かしい意味合いを孕んだものでした。
■4
忘れてしまった子供の頃の思い出が、そうさせるのか。
それとも、本当にマコトは何か、月の上に忘れものをしてきたのか。
誰も、そう、マコト自身でさえも、その疑問に答えを出せずにいたのです。
そして、それが一層、彼を焦らせました。
■5
マコトにはたくさんの友達がいました。
その中でも、とりわけ仲の良かったのが、同じクラスのナオコでした。
ナオコはいつも、マコトの月の話を聞いては、楽しそうに目を細めていました。
……これは誰にも秘密ですが、実は、ナオコはマコトのことが好きだったのです。
■6
ナオコは、マコトの何が好きだったのでしょうか。
眠っているような昼間の月を、物憂げに見上げる姿でしょうか。
瞳に涙の膜を薄く張って、私だけに月の話をする、そんな横顔でしょうか。
……いえ、彼女は、本当に理由もなく、彼のことが好きだったのです。
■7
だからナオコは、退屈に思えるような、
変わり映えのしない通学路の風景でさえ好きでした。
彼と一緒に過ごすだけの、穏やかで、なんでもない夕方が好きでした。
喘息持ちだったマコトが、時々、学校を休んでしまうと、それはもう残念でした。
そして、次の日に元気そうな彼を見つけると、
もうどうしようもなく嬉しくなってしまうのです。
■8
ある日、二人で帰ったときのこと。
ナオコは、マコトから、ひとつの秘密を聞きました。
「あの月の上にはきっと、ぼくの忘れてきた、何かがあると思うんだ」
それは、いつも静かで落ち着いた印象の彼にとって、
きっと大きな勇気の要る告白でした。
■9
そんなマコトの言葉を聞いて、
ナオコはふと、胸の塞がるような気持ちになったのでした。
……マコトの願いは、絶対に叶うことがない。
マコトの信じる月は、あの空の上に浮かんでいる月とは違うことを、
ナオコは知っていたのです。
それに、マコトもナオコも、
月の上には何一つだって無いことを知っていました。
それでも、マコトは『自分はあの空の上の月を求めているんだ』と、
自分を騙し続けていました。
その矛盾を突くことは、ナオコどころか、
誰にだってあまりに容易なことだったのです。
しかし、誰もそれをしようとはしませんでした。
■10
ですから、ナオコがマコトと同じく月に興味を持つのは、
至極当然の事でした。
月を見上げていると、いつでも、まるでマコトがそばにいるような、
柔らかで温かい幸せに包まれるのです。
■11
ある夏祭の日、家族でお祭に出かけたマコトは、
ナオコの姿を見かけて、駆け寄って声をかけたことがありました。
ナオコはとっても喜んで、二人で出店を回ったのです。
そして、神社の裏にある、丘の上の公園で、二人だけで夜空を見上げたのでした。
彼女は、この時の事を、今でも鮮明に思い出すことが出来ます。
■12
ナオコは、南の夜空に上がる花火を見て「綺麗だね」と言いました。
しかし、彼は、しばらく、
その言葉が聞こえなかったかのように、ぼんやりとしていました。
そして、花火が止んでから、ぽつりと、こう言ったのです。
「月に、届いたかな」
花火の色取り取りに染められていた時と同じく、
彼は、なぜか切ない顔をしていました。
■13
ナオコの目から見て、打ち上げ花火は、
火の粉一つですら、月に届いたようには見えませんでした。
「……うん、わかってる」
何も言えないナオコを気遣うように、
眉をハの字に寄せながらも、彼は笑ってみせました。
気象衛星や宇宙船から、どんな風に地球が見えているかだって、
彼は知っていたのです。
ですからナオコは、遠くから打ち鳴らされる太鼓の音すらも朧に、
ただ、彼の、そんなどうしようもなく儚げな顔を見つめていたのでした。
■14
時間が流れ、季節が巡って、
二人が出会ってから、三年目の夏の日のことでした。
マコトは、いつもの眠そうな顔を、
その日だけは喜び一杯に染めて、ナオコにこう言ったのです。
「ねえねえ、ナオコ! ぼく、天体望遠鏡を買ってもらったんだ!
今日の夜、……いや、いつでもいいから、見に来ない?」
ナオコは、それはもう驚きました。
いつか二人で一緒に天体望遠鏡で夜空を眺めることは、
彼と彼女の、二人だけの、一番大きな約束だったからです。
彼女は飛び上がって喜んで、そしてその日の夜に約束をしたのです。
■15
『準備が出来たら、ぼくからナオコに電話をするよ』
そんな約束だったので、ナオコは晩ご飯を食べた後、
もう落ち着かなくて仕方がなかったのです。
ですから、何時になっても彼が電話を掛けて来ないのを、
彼女はとても心配に思ったのでした。
こちらから電話をしても、誰も出てくれません。
何故か、ナオコは不安でしょうがなくて、とうとう泣き出してしまいました。
■16
「もう寝なさい。きっと、何か用事が出来ただけだわ」
お母さんは、そう言ってナオコを諭しますが、ナオコは聞きませんでした。
そうして、真夜中まで、
彼から電話がかかってくるのを信じて、待ち続けたのです。
それでも、彼から電話が掛かって来る事はなくて、
彼女はとうとう、泣きながら眠り込んでしまいました。
■17
……ナオコは、今でもあの晩に眠ってしまったことを悔やむことがあります。
だって、ひょっとすると……あのままずっと起きていられれば、
月が沈む前に、彼から、電話が掛かって来たかも知れなかった。
……彼女は、今でも、そんな想いを抱いているからです。
■18
次の日。
両親は、重い声で、ナオコを食卓へと呼び出しました。
そして、マコトが交通事故で死んだ事を知らせたのです。
■19
……世界は、暗く変わりました。
彼のいない学校への道はとても鬱陶しかったし、
彼のいない夕方は涙ばかりが出ました。
あの寂しげな月の話も、もう二度と聞けません。
彼女は、段々と笑わなくなってしまいました。
■20
……それから、しばらく経った後。
ナオコは、マコトの家へと挨拶に行きました。
そして、マコトのお母さんと、少しの思い出話をした後、
彼の買った望遠鏡を見せてもらうことにしました。
■21
マコトの家は、今でも彼の匂いがして、
ナオコは話しながら、どうしても涙を抑えきることが出来ませんでした。
マコトのお母さんも、ナオコとマコトがとても仲の良かったことを知っていたので、
話しながら、涙ぐんでしまっていました。
ナオコは、彼との夏祭りの思い出を話しながら、
「ああ、今、すぐそばに、マコトがいる」と、感じたのです。
そして、彼の天体望遠鏡のある屋根裏部屋に着いた時、
彼女の中にあった『ある気持ち』は、
■22
… … … … 。
■23
時の止まったような、麗らかな日差しの中で。
白く輝く、新しいままの天体望遠鏡。
『 … … どう!? すごいでしょ! … … 』
霧が緩やかに晴れていくように。
涙に滲む世界の中で、ナオコは、彼の声を聞きました。
思い出の中じゃない、この瞬間の、彼の声を。
『 … … これ、ぼくらの望遠鏡だよ!
ナオコも、いつ来て見ていっても良いんだからね! … … 』
「……うん。……うん。私、すごく嬉しいよ。これからは、二人で一緒に月を見ようね。
……だって私、マコトのこと、ずっとずっと、大好きだったから」
そうして、あの日からずっと置き去りにされたままだった約束が、
ようやく果たされたのを知ったのです。
■24
……今でも、ナオコは、思い出すことがあります。
私しか知らない、彼の一番の秘密。
『あの月の上にはきっと、ぼくの忘れてきた、何かがあると思うんだ』
そして、時々、思うのです。ひょっとして、マコトは、
忘れものを探しに、月に行ってしまったのではないか、と。
そして、私の眠っている間に伝えられなかった最後のお別れを言うために、
あの日まで、私を待っていてくれたのではないか、と。
■25
ほの暗く星の瞬く、月の上の、静かの海で。
マコトが私を待っている。
月の上に忘れてきた、小さな欠片を取り戻して。
最後まで生き抜いて来るのを待っている。
■25
彼と眺めた天体望遠鏡の中の、半分の月が、いつまでも忘れられなくて。
そうして、時折月を見上げては、どうしようもなく切なくなってしまうのです。
...ぼくらの天体望遠鏡。
~ 生きながらにして、月に心を置き忘れた君へ贈る Y.Naoko ~